2019年大河ドラマ「いだてん」の主人公「金栗四三」って何者?

みなさんは大河ドラマは好きですか?

大河ドラマと言えば「篤姫」や「龍馬伝」、「軍司官兵衛」や「真田丸」と言った戦国時代や明治維新の登場人物のイメージが強いのではないでしょうか。

そんな中、2019年の大河ドラマ「いだてん」は1964年に行われた東京オリンピックを実現するまでの苦悩に満ちた男のお話し。

「あれ?ちょっと大河っぽくはないかな?」なんて思うなかれ。
主人公の一人、金栗四三(かなくいり しそう)という男を調べてみるとこれがなかなか面白い。

大阪道頓堀のグリコの看板のモデルの一人なんていう話しもあります。

というわけで今回はこの金栗四三という男について調べたことをザックリ書いていきます

結局なにやった人?

これを最初に書いちゃってよいものかとも思いますが、一番知りたいのは結局この人が何をやった人なのか。
ということで金栗四三が何をやった人かというと、

日本人で初めてオリンピックに出場した人!
そして
箱根駅伝を作った人!
さらには
幻の東京オリンピック開催に尽力した人!
さらにさらに
初の国産ランニングシューズを開発した人!
そしてなんと
世界で最も遅いマラソン記録を持つ男!

どうですか?
なかなかすごいでしょ?

ではザックリながらも、もう少しだけ砕いて書いていきましょう。

熊本生まれの病弱な秀才野生児?

1891年(明治24年)に熊本県でうまれた四三は8人兄弟姉妹の7番目
現代だったら8人兄弟はとてつもなく多い大家族ですが、当時としてはびっくりするような大家族でもありませんでした。

病弱な父親の血を受け継いで四三の幼少期も似たような虚弱体質。
毎晩のように夜泣きをしていました。

夜泣きが続くと親は大変ですよね……わかるなぁ……。

そんな四三も小学校に上がる頃にはすっかり元気、いや元気過ぎるほど元気になり、学校への12キロの道のりを毎日裸足で走ってたといいます。

すでに鉄人でしょ(笑)
ハンター試験かよ(笑)

しかも成績優秀。
この頃からすでにスターの素質があったんですね。

その後、旧制中学を卒業すると海軍兵学校を受験。
この海軍兵学校というのがなかなかハイレベルな学校で、学年の3分の1は中学を首席で卒業したとかしないとか。
この絶対に負けられない戦いに挑んだ四三は患った角膜炎が身体検査に引っかかり不合格。
まぁ海軍兵になろうというんだから身体検査もありますわな。

勉強外のところで無念の敗北となってしまいましたが、滑り止めで受けた東京高等師範学校に合格。
この学校は現在の筑波大学だそうです。

東京高等師範学校はスポーツに力を入れた学校で、マラソン大会を年に2回開催。
得意の脚力を使って3位に入賞すると、「おい一年坊主!すごいじゃないか!徒歩部に入れよ!」的なことを校長が言ってくれたので、はい入部となりました。

徒歩部ってなんですか(笑)
まぁ現在の陸上部ね。

そしてこの時の校長は、あの有名な嘉納治五郎

柔道の父なんて呼ばれた伝説の男。
漫画「YAWARA」のおじいちゃん「猪熊治五郎」のモデルになった人。

こうして四三はマラソンの道へと本格的に進みました

初のオリンピックは感動の布石!

治五郎おじいちゃんが東洋で初の国際オリンピック委員に選出され、スウェーデンで開催されるストックホルムオリンピックに日本が出ることになりました。

となれば気合い充分の四三。

予選大会では当時のマラソン世界記録を27分も上回る記録で優勝。
しかもランニングシューズなんてものが日本にはなかったので足袋を履いて出場。
しかもしかも、その足袋も途中で破れて裸足で走ると言うアクシデントもあった!

すなわち

完全なる勝利!

圧倒的勝利!

そう!!圧倒的!!

足袋の改良も行い、迎えた1912年(明治45年)7月6日
治五郎考案の「NIPPON」プラカードを掲げストックホルムの地へ!!
ちなみにこの「NIPPON」という表記は当初「JAPAN」という表記の案があったようですがこれを四三が拒否!
「じゃぱん?それはイギリスが勝手に付けた呼び名だろ!日本なんだから漢字の日本でいいんだよ!」と駄々をこねたので、見かねた恩師の治五郎おじいちゃんが「わかったわかった。NIPPONにしよう。これでいいじゃろ?ん?」と妥協案を示したことで決定したそうです。

さて、白熱のマラソン本戦。

結果は……

なんと、26キロ過ぎで日射病によるダウン……
倒れた先の農家で介護されると言う事態になりました。

初めて一緒に走った外人たちのハイペースに合わせてしまい自分の走りができず、慣れない土地の食事や白夜による寝不足、慣れない硬い地面で走り、味わったことのない猛暑の中のレースでのダウンでした。

記録は…………

「行方不明」

なんなんじゃそりゃ。ちーん。

四三が大会本部に棄権届を出し忘れたために「棄権」ではなく「行方不明」となったようです。
しかしこのことが後の大きな感動を生むとは、この時誰も想像できませんでした。

こうして日本人初のオリンピック挑戦は終わり、四三は次のオリンピックに向けてまた走り出したのでした。

箱根駅伝なるもの

ストックホルムオリンピックが終わり次なる開催地ベルリンに向けて猛練習を積んだ四三。
しかし第一次世界大戦の影響でベルリン大会は中止となってしまいました。

この時、26歳。

さらに4年後は30歳かー…と悩んだ四三は恩師である治五郎おじいちゃんに相談し、教師をやりながらマラソンの普及や自身の強化などに力を入れようと決意、神奈川師範学校に不妊します。

教師として生徒に様々なことを教えつつもしっかり自分を鍛え上げ参加した1917年(大正6年)の東海道駅伝徒競走は日本初の駅伝となり、関東組VS関西組のガチンコタイマン勝負。
四三は関東組のアンカーとして圧倒的大差でゴール。

その後、いくつものマラソン大会を開催しながら選手の強化や次なる大会の構想に勤しむ四三は、沢田栄一、野口源三郎という陸上仲間と共にアメリカ横断駅伝を計画!

なんというスケール……

その予選会を国内で行う際に選んだ舞台こそが箱根。
箱根の山をロッキー山脈に見立てたそうで、参加した学校は母校の東京高等師範学校、早稲田、慶応、明治の4校。
第1回大会は母校の東京高等師範学校が優勝しました。

早稲田や慶応も伝統伝統言うけど、こうやって紐解くとやっぱり伝統深い学校なんだね。

YAWARA的スポーツ女子と治五郎じいちゃん

箱根駅伝と時を同じくして開催されていたベルギーのアントワープオリンピックに参加した四三は途中で足を痛め16位と言う結果で終わり、帰国後は東京女子師範学校で女性にもスポーツで活躍してもらおうと尽力。
当時の日本はまだまだ男尊女卑というか、「女は家庭を守るものだ!」みたいのが強かったので女性にスポーツというのはハードルの高い話だったんですね。

なので「スポーツは楽しいですよ~」を触れ込みに、テニスを楽しく指導。
その甲斐あって1923年(大正12年)に関東女子体育連盟を設立しました。

YAWARA的な女子がいたかどうかはわかりませんが、確実に女性のスポーツ人口を増やしていったんですね。

そんな折迎えた1924年(大正13年)のパリオリンピック

34歳になった四三はもう脂の乗った選手とは呼べず、育ってきた選手に多いに期待するポジション。
予選会には出るけれど、それは後輩への激励の意味。

その予選会でリタイヤが続出しなんとオリンピックの切符を手にしてしまいました(笑)

なんだこれ(笑)

しかしピークを過ぎた四三ではオリンピックで勝てるはずもなく、大会の結果はあえなく途中棄権。
これにより四三のオリンピック挑戦は終了し、現役を退きました。

その後の四三は昭和5年に東京女子師範学校を去り、故郷熊本で愛する家族と悠々自適に時を過ごします。

やがて日本オリンピック協会の初代会長となった治五郎おじいちゃんに呼ばれ、昭和15年の東京オリンピック実現に向けて奔走することに。
当時の日本は日中戦争の戦火の中にあり、「オリンピックのことなんかやってる場合かよ!」などと反対され揉めに揉めまくりました。
なんとか東京オリンピック実現が現実になろうとしていたさなか、嘉納治五郎が死去。
恩師と実現したかった東京オリンピックはあと一歩のところで、幻となってしまったのです。

陸王。

東京オリンピックが幻に終わり、第二次世界大戦の敗戦国である日本はロンドンオリンピックは出場できず、オリンピックで結果が出せないでいた日本ですが、それでもオリンピック選手の育成に尽力し続けた四三は自らが監督になりました。

幾度となく改良していたマラソン用の足袋は、西洋のランニングシューズのようにつま先の割れ目を無くし、カナグリシューズとしてついに国産初のランニングシューズを完成。
ボストンマラソンに於いて四三が育てた選手がカナグリシューズを履いて世界記録を大幅に更新して優勝したのでした。

そして伝説へ……

時は流れ、1967年(昭和42年)77歳になった金栗四三はスウェーデンのオリンピック協会から招待を受け、55年ぶりにストックホルムに降り立ちました。

招待状の内容は「1912年のストックホルムオリンピックに於いて四三の記録が未ゴールのままになっており、ぜひともゴールしてちゃんと記録を残していただきたい」というものでした。

四三はストックホルム記念球場でゴールテープを切り、正式にゴールとなりました。

記録は……

54年8ヶ月6日5時間32分20秒3

「これをもちまして第5回ストックホルムオリンピックの全日程を終了いたします」
というアナウンスと共に四三の長い長いレースが終わりました。

会場は大きな拍手で包まれました。
当時助けてくれた農家の夫婦とも再会し、幸せな時間を過ごした四三。

1983年(昭和58年)にその長い人生のランナーも終え、四三は静かな眠りにつきました。
92歳でした。

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いやー。なんて粋な国なんだ、スウェーデン!
そしてなんという物語性にすぐれた話なんだ!

大河ドラマも盛り上がってほしいですね。

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